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小倉屋の主屋は、ツシ2階建て(一部2階建て)切妻平入りと言われる形式の町家建築です。主屋の間口は5間。奥行きは7間。屋根は本瓦葺き。

主屋の道路側全面は奥行き2間のミセドマがあり、その奥には、上手側(北側)に2列の部屋が並び、下手側(南側)は2間幅の土間(トオリニワ)がオモテ(道路)からウラ(庭)まで貫通します。

トオリニワの上部は吹き抜けの空間で、建物の上部構造を支える梁と小屋組みが表しになっています。トオリニワの最上部には煙出しの越屋根の痕跡が伺え、現在は明かり取りのための天窓になっています。

主屋の奥には100坪弱の庭が広がります。かつて、ここには離れ座敷や蔵などが建ち並んでいました。一部基礎の石組などが残った建物は、その遺構がわかるような形で表現されています。庭の北西部分に置かれた壁も離れ座敷の遺構です。この壁にさしかけられた土廂の下のベンチから、ゆっくりと庭を眺めることができます。

小倉屋では、部屋の部分を喫茶スペース(茶房)として利用しているほか、ミセドマの部分は多目的な用途に対応するフリースペースとしています。また、主屋奥の付属屋にはレンタルで使える厨房を備え、様々な用途で活用できる空間になっています。


小倉屋の前身は、江戸時代初期から平成まで続いた金物屋。

初代は女性で、九州の小倉にいたとき武士であった夫が亡くなり、その後当地に住処を移して商いを始めたと伝えられています。屋号は小倉屋。当主は代々市兵衛を名乗り、明治以降は尾上市平と名乗りました。平成の終わり頃、第12代の当主を最後に商いが途絶え、店舗も売却されたものを、現在の所有者が買い取り、2024年8月から、喫茶とフリースペースからなる複合店舗として再生しました。

現在の建物は、18世紀末から19世紀初め頃に建てられたもので、2024年現在で、建築から220~230年を経ています。大黒柱の上部には、寛政7年(1795)の年号の記された、六代目市兵衛の手になる祈祷札が掲げられています。



小倉屋の所在地は、姫路市堺町30番地。

堺町は、姫路城下町のうちの町人町で、多数の商家が軒を連ねた地域です。堺町という町名は、江戸時代の初め寛永元年(1624)に城下町の西に材木町が作られた時から始まったとされており、それ以前、少なくとも羽柴秀吉が姫山に城を築いた天正の頃には、この堺町と、その北に連なる竹田町、生野町を合わせて材木町と呼ばれていたそうです。

堺町を南北に貫く道は、姫路城下と生野・但馬を結ぶ街道で、但馬道と呼ばれていました。このうち城下の野里地区にあたる部分は、野里街道とも呼ばれます。姫路城天守の北東に位置する野里街道周辺には、現在も歴史的な民家が多数建ち並んでおり、世界遺産姫路城のバッファゾーンとされています。城下町の特徴である「あてまげ」と言われる非直線型の交差点や、のこぎり型の地割なども見られる地域です。

堺町の南側に隣接する町は、かつて久長町と呼ばれていました。久長町の名は、姫路城中堀を挟んで残る久長門跡に残されています。堺町の東側の通りには、多数の寺院が甍を並べています。姫路城下町の整備にあたって、上方方面に対する守りを固める目的で、姫路城外堀の入口となる外京口門から城内に入ったあたりに各地から寺院が集められ、寺町が形成されたことに由来するものです。

姫路の城下町は、その南半分にあたる姫路駅前の地域は戦災でほとんどの建物を焼失しましたが、野里を含む広大な城下町全体を見渡せば、当時の痕跡を今でも至る所で見ることができます。じっくりと時間をかけて、積み重ねられてきた歴史を想像しながら歩く価値のある、面白い地域です。


小倉屋にお越しの際は、バスや自転車のご利用をお勧めしています。


姫路駅から1.8km。自転車で10分足らず。徒歩でも30分はかかりません。


バスをご利用の場合は、神姫バスの「姫山公園南・医療センター・美術館前」バス停から、徒歩5分余りです。姫路駅(北口)7番又は8番乗場から国立医療センター方面を経由する各系統のバスが利用できます。また、割安な観光ループバスも利用できます。


駐車場はご用意しておりません。

お車でお越しの際は、姫路城周辺の公営駐車場かコインパーキングなどをご利用ください。